与布土地域の集落数 | 10区 |
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世帯数 | 530世帯 |
人口 | 1,201 |
地域の面積 | 21.39k㎡ |
高齢化率 | 40.88% |
限界集落 | 1 |
順限界集落 | 4 |
与布土地域は10集落で構成され、地域の面積は21.39km2で、503世帯、1,201人が住んでいます。
高齢化率は、現在40.88%という超高齢化を迎えており、限界集落も発生し、市内でも人口減少が比較的早く進んでいく地域であると推計されていています。
当地域は、農村地域で約2.2K㎡の農地を有していますが、農業の担い手が年々減少し、農地の管理については、将来深刻な状況となることが懸念されています。
このことから、農地を守る仕組みづくりや担い手を確保するための移住定住促進、そして高齢者の福祉対策などを重点課題として取り組むこととし、法人組織を設立するなど新たな挑戦に乗り出したところです。
与布土の歴史は、竹田城とのかかわりが色濃く残っています。
1431年に山名宗全が竹田城を築城した後、与布土の衣笠山に出城が作られ、松岡
盛祐が城主となって玉林寺(1560年)や八幡神社(1554年)を創建したと
いわれています。
1467年に勃発した応仁の乱は但馬の山名宗全と丹波の細川勝元との戦い
で、与布土の豪族与布土又三郎が山名軍に加わり、村雲の合戦で活躍した
と言われています。
与布土又三郎は、山崎という名前の豪族でしたが、郷土の名を名乗っていま
した。
戦国の世となり、又三郎は刀を捨て、習田(しゅうた)を名乗り農民とな
って喜多垣に住んだと言われています。
又三郎の子孫の甚兵衛(代々甚兵衛を名乗っていた)の2人の子の兄竜田和尚は小浜市の常高寺(京極若狭守高次の夫人“初” =秀頼の叔母、家光の伯母が創建)の住職となり、弟甚兵衛は、のちに山崎誠造と名乗り倒幕運動や生野義挙に参画しました。
誠造が生野義挙に加わったことで、ともに参加した地元の農民が幕府から処分されることを恐れ、農民が共謀していない証拠を作るため、山崎邸を襲わせたと言われ、そのときの柱や梁に斧や鉈などの傷跡が現在も残されています。
(山崎邸は現在、古民家レストラン「喜古里」として活用されています。)
後に、山崎誠造は、和田山町高田から田路久米蔵を養子に迎え、養蚕を学ばせました。
久米蔵は後に、養蚕業の指導者として、福島県、京都府で活躍し、養蚕技師として国にも認められ有望な将来を期待されていましたが、山崎家を守るために郷里に戻り、与布土村長に2度もなり、村政に貢献しました。
話は少し戻りをしますが、1577年の羽柴秀長の但馬侵攻において、竹田城が攻められた際に、7代城主太田垣輝延の家老がふみとどまり、女子・こどもを逃がしたと言われています
この時、奥方と腰元たちが観音像を持って落ち延びる途中に力尽きて喜多垣の山崎家に預けたものを、山崎家でお堂を建立し、観音堂として大切に守ったという古老の言い伝えにより、現在も「喜多垣の観音さん」として保存されています
昭和の中頃までは、毎年8月17日を「喜多垣の観音さんの盆踊り」として多くの人が観音堂を訪れ、夜店が出るほどの賑わいをみせていました
竹田城との関連は明確ではありませんが、柊木には庄屋跡の川塀に竹田城と同じ穴太積の石垣が残っていましたが、道路改修により移設され、現在はポケットパークとして石積みが保存されています。
与布土地域は、10集落で構成されています。
その集落規模は、一番小さな集落で約20世帯、大きな集落では約100世帯です。
その10集落の地名とその由来は、次の通りです。
この地域はもともと「須賀」と呼ばれていました。
その由来は古く、出雲神話の須佐之男命と稲田姫の伝承にさかのぼり、古来「須賀の里」と呼ばれていた集落には柊木が多く生息する「柊木山」があり、時が経つにつれて地名が「柊木」に変称されたのだろうと考えられています。
一説によれば、「溝黒」は本来「溝畔」ではなかったかと言われています。
「溝」は田畑の耕作に重要な水利施設の一つであり、「畔」は田地を意味する字です。
そして「黒」は肥沃土すなわち「黒土」を意味することから、農耕集落としての願望を表した漢字の転化ではないかと考えられています。
確かな資料は残っていませんが、「山歳」という地名は本来「山際」であり、いわゆる山の際に形成された村落という意味を持っているのではないかという説があります。
喜多垣は、その昔、集落名を「押(忍)坂村」と言ったようです。
この名は、喜多垣に奉祭されている、但馬四ノ宮として由緒正しい押坂神社から取られていたことは明白です。
押坂村から喜多垣へ名を変えた理由は不明ですが、全国にたくさんある「喜多垣」という地名同様、「幸多く栄えるように」と祈願されてつけられた地名であると考えられています。
この地を「廻間」という名で記した文献もあるのですが、どちらにしろ「山や谷の迫った狭い土地」という意味であり、地域の自然環境を端的に表した地名です。
この地名は古く、延長三年に作られた「但馬世継記」に「與等連」の住んでいる「與布土ノ里」として記述が残っています。
つまり千年以上昔から現在の地名と文字が全く違っていないのです。
この地の連である與等氏の姓を村名にしたのか、地名があって連の姓ができたのかは定かではありませんが、「與等」から「與布土」「与布土」へと変わったのは確かのようです。
この地域は、延長三年の「但馬世継記」に「森畑ノ里」として記されています。
それによると、養蚕・紡織を生業とした秦部という部族によって治められていた地域だったようです。
それが時代とともに秦(畑)部として性格が薄れ、「森」のみが残ったと考えられています。
この地域には、神話に基づく伝承が残っています。
粟鹿・当勝・住吉の三神が但馬国を拓こうと粟鹿山頂にいた時、三保地域の辺りから粟の穂を三本角にかけた白鹿が現われ、神々の危機を救ったとのことです。
これによって、但馬国開発の大業が成し遂げられ、白鹿の上ってきた地域一帯を「三穂」と名付け、後に「三保」となったそうです。
文献に残る「巨勢威田ノ里」が、現在の「越田」の地名となったのではないかと考えられています。
「巨勢」とは、日陰や山陰を表す言葉で、そこから考えると、「越田」とは山陰の山裾に田を耕し、生活の場を形成した農村という意味となります。
この地名は、最初「垣坪」であったと考えられています。
延暦十一年から、国内の治安警備などのために、組織的な軍事施設が各地に置かれました。
交通の要所であり但丹の国境でもあるこの地に、但馬の軍団が存在した可能性が高いと思われます。
「垣坪」の「垣」は囲いであり、外敵に対する守りを表し、「坪」は場所を表します。
この地名は、もともと軍坊垣内に形成された集落という意味だったと考えられています。